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月からの甘い誘惑 1

 椎名 碧(しいな みどり)は呆然としていた。
 
 何も自分は悪い事なんてしていない。
 頭は悪いけど、勉強は嫌いだったけど、でもそれなりに生活の為にちゃんと真面目に働いて稼いでいた。
 それなのに…。

 いつも通りの仕事からの帰り道。
 何も、どこも、いつもと変わりはなかった。
 今の今までは。
 オンボロのアパートは格安で、少ない碧の給料でも生活出来た。なるべく自炊するようにして出費を減らして。
 それなのに今そのアパートが碧の目の前で煌々と燃え盛っている。

 「嘘だろ………」
 消防車のサイレンが何台も鳴り響き、放水はあちこちからかけられ、夜なのに火事の火で気味悪い位に明るく、そして黒い煙が不気味だった。

 ナニコレ…。

 あまりにも現実から離れた出来事に碧の思考回路がついてこない。
 ぼうっとしたまま燃え盛る炎の方に引き寄せられるように碧は足を進めた。
 「ちょっとキミ!危ないから下がっていなさい!」 
 「だってあそこに…俺の……」
 「キミここの住人?あとで連絡先を。今は危ないから!」
 オレンジ色の防火服を着ている消防隊員に取り押さえられるようにされた。
 「だって!あそこに着替えとか!いるものとかっ!」
 「もうだめだ…燃え方が早くて…倒壊も時間の問題だよ」

 嘘だ!

 命よりも大事な物なんてアパートに残ってはいない。
 分かる。それは分かるけどじゃあ明日からどうやって生活していけばいいんだ?
 倒壊?
 じゃあ今晩碧はどこで寝ればいいんだ?
 何も考えられない位に動揺してしまう。
 知り合いはいる。
 けど、こんな時に頼られるような人はいなかった。

 「離してっ!」
 何か使えるものでも!少しでもいいから!
 「ダメだ!危ないっ!」
 「ちょっとキミ!」
 消防隊員の人と押し問答をしていると火事を見ていた人垣の中から一人の人がかき分けて出てきて碧の肩を掴んだ。
 「キミ、ここに住んでいたのかい?」

 見た事ある人だ。誰だっけ?
 どこか夢うつつな碧は思い当たらない。
 確かにどこかでは会っている。
 でもどこで?
 声をかけてきた人はスーツをパリッと着こなし、どうしたって碧の店に来る様な人種ではない。客では絶対にないはず。
 じゃあ誰?

 「あなたはこの子の知り合い?」
 「知り合いというか…ま、ぁ…」
 「ちょっとこの子押さえてて。中に行こうとして危ないから!」
 「はぁ」
 ぼうっとしていた碧の脇で消防隊員と男の人が話をしていた。
 「この子押さえてて!」
 碧の身体を男の人に押し付けて隊員は仕事に戻る。

 「シーナ、くん。……大丈夫…じゃない、か…」
 男の人ががっしりと碧を後ろから羽交い絞めにしていた。
 消防隊員との問答を見ていたのだろう。
 碧よりずっと大きな身体だ。

 シーナ、と呼ぶならやっぱり店関係か?
 でも知らない…。
 誰だっけ?
 でも見た事はあるんだ。
 そう思っても目の前にある現実はもうすぐ黒焦げと化すであろう碧の住んでいたアパートだ。
 「シーナ…でいいのかな?キミ、今日どこか行くあては?」
 「……………ない」
 「ご実家は?」
 「遠い」
 「彼女とかは?」
 「いない」
 「友達は?」
 「…いない」

 遊ぶ仲間ならいる。けどどこに住んでるのかとかそんな事を知っている様な仲がいいヤツなんていなかった。
 その場さえ楽しければいいような知り合いばっかりだ。
 …一人だけもしかしたら力になってくれるかもしれない人はいるけれど、後々の事を考えれば連絡は入れたくはない。
 
 たおれるぞー!
 
 叫ぶ声が聞こえたと思ったら轟音と火柱と黒煙をあげてボロなアパートはあっという間に倒壊した。
 思わず碧は顔を覆う。
 …終わった。
 なくなった。何もかも。
 涙が溢れてきた。
 実家を出て一人でずっとやってきたのに!
 これからどうしたら…。
 嗚咽が漏れると男の人が碧の身体をひっくり返して今度は前からすっぽりと抱きしめてくれた。

 誰か知らないけれど。
 いや、見た事はあるんだから知っている人だろうけど。
 今、ここで一人じゃないのに縋ってしまう。
 声をたてて泣く碧を黙って男の人は宥めるように碧の背中を撫でてただ抱きしめていてくれた。

 何もない。
 全部がなくなってしまった。
 あるのは自分の身体と着ている服と一つのバッグの荷物だけ。
 通帳は持ち歩いていた。
 でもろくに入っていない通帳だ。
 宛てになどならない通帳とバッグと携帯と身体。
 碧に残された全財産はそれだけだった。
 
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テーマ : BL小説
ジャンル : 小説・文学

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